合気道の創始者:植芝盛平の歴史

Morihei-Ueshiba.jpg日本の合気道の創始者。合気道界では「開祖」と敬称される植芝盛平先生の生い立ちから、主な活動を年譜形式でまとめました。

影響を受けた人たち、影響を与えた人たち、そして合気道と呼ばれる日本武道の生い立ちが植芝盛平の生涯とともに感じていただけると思います。



 

 西暦 和暦  主な活動 
 1883  明治16年 和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(現・田辺市)の富裕な農家・植芝家の長男(姉3人・妹1人)として生まれた。 父・与六は村会議員を務める村の有力者で、巨躯・怪力の持ち主、母ゆきは甲斐武田氏の末裔という糸川家の出で文を良くしたという。
盛平は与六にとって40歳にして始めて恵まれた待望の男児であり、終生与六の寵愛を受けて育つ。 幼少時の盛平は病弱で読書好きの少年であった。寺の学問所で四書五経を習う一方、数学や物理の実験に熱中するが、これを危ぶんだ与六は、近所の漁師の子供と相撲を取らせるなどして、盛平の体力と覇気を養うよう努めた
 1896 明治29年
13歳
 田辺中学校(現・和歌山県立田辺中学校・高等学校)に進むが一年を経ず中退、珠算学校を経て田辺税務署に勤務するも漁民の権利運動に加担し退職する。
 1901  明治34年
18歳
 上京して日本橋の問屋に住み込み奉公の後、文房具卸売り業「植芝商会」を設立。その傍ら起倒流柔術・神陰流剣術を学ぶ。商売は成功するが、脚気を患い店を店員に譲って無一文で帰郷する。 田辺での療養で健康を回復し、2歳上で幼馴染の糸川はつと結婚。
 1903  明治36年
20歳
 この頃盛平の身長5尺1寸5分(約156㎝)体重20貫(75kg)、短躯ながら筋骨逞しい重厚な体格であった。徴兵検査の身長合格基準5尺2寸に足りず一度は不合格となるも、同年の再検査で合格する。
大阪第4師団第37連隊に入隊し、足掛け4年間の軍隊生活が始まる。銃剣術が得意で教官の代わりに教えるほどであったと言われている。
同時期に堺市の柳生心眼流柔術・中井正勝に入門、25歳で免許を受ける。
 1912  明治45年
29歳
 兵役を終えた後は、開拓移民団の長として北海道紋別郡白滝村(現遠軽町)の原野に開拓農民として移住し不毛の原野を開墾するな事業を、盛平は優れた忍耐力と指導力で成功に導いた
 1915  大正4年
31歳
 大東流合気柔術の武田惣角と出会い、武田から大東流合気柔術の技法を学んだ。他に、狭川派柳生新陰流剣術の皆伝も授けられていると云われている。
 1916  大正5年
32歳
 武田惣角より大東流柔術の目録「秘伝奥義之事」を受け、惣角代理として裁判所判事や警察署長などの指導にあたる
 1917  大正6年
33歳
 父親の危篤の報を聞くが、大正8年末に郷里田辺に急いだはずが京都に着くと綾部に向かい、大本教本部で父の病気平癒の祈願をした。そこで大本教の指導者・出口王仁三郎に出会う
 1918  大正7年
34歳
 白滝は大正6年5月に大火災に見舞われ大被害を受けた。盛平は虚脱状態の村民を励まし復旧に活躍し、上湧別村村会議員に当選し、盛平は名実ともに白滝を代表する人物となる
 1919  大正8年
35歳
 綾部で「植芝塾」道場を開設
 1922  大正11年
38歳
 出口王仁三郎の命名により、自らの武術を「合気武道」と呼称し、井上鑑昭と共に、大本の内外の人に教授していた
 1926  大正15年
42歳
 招かれて上京し、帝国海軍の浅野正恭中将、竹下勇大将などの軍人や財界の関係者に、井上鑑昭と共に「合気武道」の指導を行う。
 1931  昭和6年
47歳
 現在の合気道本部道場の位置(新宿区若松町)に80畳の道場「皇武館」が完成し、そこに移る。
1940年(昭和15年)には「財団法人皇武会」(初代会長竹下勇)として厚生省より認可を受けた
 1948  昭和23年
64歳
 2月9日に「皇武会」は「財団法人合気会」と改称し、改めて文部省の認可を受けた。(一方の「合気武道」はその後、井上鑑昭が範主となって教授を続けた
 1969  昭和44年
86歳
 4月26日午前5時、肝臓癌のため東京本部道場同敷地の自宅で死去。享年86歳。生前の「合気道の創始・ならびに普及の功績」により政府から正五位勲三等瑞宝章を贈られる。生地田辺市の高山寺が墓所となった。盛平三男・植芝吉祥丸が二代目道主を継承。


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