合気道理論:富木謙治

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富木謙治の年譜

tomiki_kennji.jpg日本合気道協会 昭道館(しょうどうかん)の設立者で講道館柔道創始者・嘉納治五郎が柔術を柔道に昇華させたように、合気道をより昇華させることを目指し、合気道の乱取り稽古を考案し導入しました。

富木先生の合気道は乱取り稽古を行うなど、他の会派と異なる点も多いため、区別するため、「富木流合気道」、「富木合気道」と呼ばれていますが、富木先生自身はこの呼称を用いず、単に「合気道」とおっしゃってます。

早稲田大学・日本体育大学等の教員をし、合気道の普及発展に貢献した第一人者です。

1900年3月15日 - 1979年12月25日(79歳)





富木師範の柔道体操(動画)

富木師範は、「合気道の技」の基本となる動作を、体操の形式にまとめて練習しやすくしました。富木理論にも書かれていますように、合気道を広く普及させるために、技や動きを指導しやすいように、体育学的にまとめたのが富木師範だからです。

そんな一例としての練習動作を「柔道体操」として、富木師範が実施されているDVDがありました。

 

・「単独練習」は今で言う「運足」と「手刀体操」で、足さばきと手刀動作の練習ですが、現在のとは多少動きが違いますが、練習の狙っているポイントは同じです。

・「相対練習」は、単独練習の動作を二人に組み合わせて行います。身体のかわし、腕の動き、力の使い方を練習します。

・「合気道の技」が繰り広げられてますが、現在の基本17本と比較しながら見て行くと、大変に興味深いものを感じます。



合気道を競技スポーツとして広めた富木謙治理論の原点

今日の合気道会の中心的勢力と言える(財)合気会の植芝吉祥丸道主は「合気道は試合をしない。試合によって勝敗を決める価値を認めていない」といい、競技スポーツとしての道をとらずに「武道の中に流れている心の一面を特に強調する道を選んだ。だから合気道では試合をせずに、勝敗を争わない演武だけを行う」と記しています。


こんな中にあって、ひとり競技スポーツとして体育としての合気道を主張したのが、日本合気道協会初代会長の富木謙治でした。合気道界ではややもすると異端の目で見られた富木とその理論でありますが、体育学的に展開される彼の理論は、学問的には極めて論理的で常識的な内容でした。


富木謙治は著書「合気道入門」の前書きで「私の合気道をみる立場は柔道的である」と記しています。「柔道的」という言葉の意味は、柔道の創始者・嘉納治五郎の武術に対する見方と同じであるということです。

つまり、身体を育成するために、勝負に勝つため、そして精神力を育てるために、心と身体の全能力を最大限に発揮すること、すなわち、人間の能力の所産としての科学的思考法や合理的な態度をとることそのものを柔道としたのです。従って、嘉納治五郎にとって、「精力善用の原理」を応用して行うものは、すべて柔道の応用であり、また柔道そのものでもあると言えます。

以上の考え方を基礎に嘉納は二つの練習方法を指示しました。それは競技形式で行う「乱取」柔道と、様々な格闘形態で行われる「形」柔道でした。この中には今日の合気道技法として一般に知られているものも多く含まれていました。

それは昭和5年に、嘉納は目白台の道場に植芝盛平を訪ね、その演武を見学すると「これこそ自分が理想としていた武道、すなわち柔道だ」と語ったことからも理解できます。植芝のそれは、大東流合気柔術という柔術の一派であっても、嘉納は各流派の柔術を超流派的に研究し、乱取柔道を創始した態度とを合わせ持っていたところに、嘉納の近代的教育者としての真骨頂があったということが出来ます。


富木謙治の合気道観が、以上のような嘉納の考え方を基盤にしていることがわかると同時に、ここに富木理論の原点があると思われます。

 

*大修館書店「合気道教室」 志々田文明・成山哲郎 共書を参照

 



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