「合気道」創始の日

合気道は、新羅三郎義光を開祖とし、甲斐の武田家へと引き継がれ、その後に会津藩の城内で「会津御式内」(あいづおしきうち)として密かに伝承されてきた「大東流柔術」が元になっており、その普及に努めた武田惣角に学んだ植芝盛平が技の整理を行い「合気道」としたと言われています。

合気道創始をいつにするかについては難しい問題がありますが、大正4年2月植芝盛平が31歳の時、北見遠軽に出かけた際、宿泊先で武田惣角に偶然出会い、見込まれて惣角の弟子になり、そのまま1カ月間にわたって朝から晩まで大東流の手ほどきを受けたことがすべての始まりになっていると言えます。

翌年の大正5年3月に、盛平は惣角より大東流柔術の目録「秘伝奥義之事」を受け、その後も惣角代理として指導に当たっています。

大正8年12月、父危篤の一報を受けながらも郷里の田辺へ直行せず、父の病気平癒の祈願のため綾部に向かいます。そこで盛平は大本教の指導者・出口王仁三郎に出会い、その人格に魅せられ深く傾倒したためそのまま3日間とどまりました。盛平にとってこの出会いも「合気道」というものに大きく影響を与えていることが、後々わかってきます。


現在、合気道は植芝盛平を開祖として普及されていますが、その源流は武田惣角を中興の祖とする大東流柔術と言われています。植芝盛平は「英名録」にこう記しています。

「大正11年4月28日より同9月15日まで、京都府下何鹿郡綾部町の別荘において武田大先生につき大東流合気柔術ご教授相受け候なり」。このとき武田惣角が植芝盛平に教えた内容は「百十八ヶ條裏表、合気之術裏三十ヵ條、秘伝奥義三十六ヶ條裏表」で22回教授したことが記されています。惣角はまた、9月15日付で植芝盛平に大東流合気柔術の教授代理を許しています。


しかし、盛平は大本教への信心はあつく、自分の技法が大東流のそれであることを認めつつも、師惣角にはついていけない趣旨のことや、自分が強くなったのは大本教を信仰したことよることなどを強調していました。

このような事実から、盛平は、このころから惣角の大東流から離れて行こうとする考えがあったと思われます。


昭和2年秋、43歳の植芝盛平は東京に移住し、島津邸内の仮道場を出発点として活動を開始し、昭和6年に現在の合気会本部道場の位置に80畳の道場「皇武館」が完成すると、そこに移り住みました。


昭和6年に新築された植芝の皇武館道場には、惣角より与えられた大東流合気柔術の門人証と言える証が収められていて、当初は惣角への師礼をとっていましたがしばらくすると取り外されていました。植芝が当時、大東流植芝派という形で独立を考えていた節もあり、道場主として安定した基盤を持ちながらも、大東流から離別するにあたっての悩みは深く大きなものであったと思われます。


昭和11年ころからは「合気武道」としてしばらく定着しますが、「合気武道」は戦時下の昭和17年、軍の方針により「合気道」と便宜的に称され、今日に至っています。

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