合気道を競技スポーツとして広めた富木謙治理論の原点
今日の合気道会の中心的勢力と言える(財)合気会の植芝吉祥丸道主は「合気道は試合をしない。試合によって勝敗を決める価値を認めていない」といい、競技スポーツとしての道をとらずに「武道の中に流れている心の一面を特に強調する道を選んだ。だから合気道では試合をせずに、勝敗を争わない演武だけを行う」と記しています。
こんな中にあって、ひとり競技スポーツとして体育としての合気道を主張したのが、日本合気道協会初代会長の富木謙治でした。合気道界ではややもすると異端の目で見られた富木とその理論でありますが、体育学的に展開される彼の理論は、学問的には極めて論理的で常識的な内容でした。
富木謙治は著書「合気道入門」の前書きで「私の合気道をみる立場は柔道的である」と記しています。「柔道的」という言葉の意味は、柔道の創始者・嘉納治五郎の武術に対する見方と同じであるということです。
つまり、身体を育成するために、勝負に勝つため、そして精神力を育てるために、心と身体の全能力を最大限に発揮すること、すなわち、人間の能力の所産としての科学的思考法や合理的な態度をとることそのものを柔道としたのです。従って、嘉納治五郎にとって、「精力善用の原理」を応用して行うものは、すべて柔道の応用であり、また柔道そのものでもあると言えます。
以上の考え方を基礎に嘉納は二つの練習方法を指示しました。それは競技形式で行う「乱取」柔道と、様々な格闘形態で行われる「形」柔道でした。この中には今日の合気道技法として一般に知られているものも多く含まれていました。
それは昭和5年に、嘉納は目白台の道場に植芝盛平を訪ね、その演武を見学すると「これこそ自分が理想としていた武道、すなわち柔道だ」と語ったことからも理解できます。植芝のそれは、大東流合気柔術という柔術の一派であっても、嘉納は各流派の柔術を超流派的に研究し、乱取柔道を創始した態度とを合わせ持っていたところに、嘉納の近代的教育者としての真骨頂があったということが出来ます。
富木謙治の合気道観が、以上のような嘉納の考え方を基盤にしていることがわかると同時に、ここに富木理論の原点があると思われます。
*大修館書店「合気道教室」 志々田文明・成山哲郎 共書を参照
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